Aloe*Wing 

全ては綾なすイリュージョン
TOP ≫ CATEGORY ≫ 心と宇宙の話し
CATEGORY ≫ 心と宇宙の話し

シフト3~ハンドルを切ったのは誰?

今回一連のタイトルを「シフト」としている理由、

それは。

人は実は何度も死んでいるかもしれない。
その都度、違う層へ「シフト」し、人生が継続しているように思えている

・・・かもしれない。

と、考えているからです。


大昔は
死んだらどうなるんだろうか?
何も無くなるなんて信じられない、
きっと姿の無い思考(霊)だけが残るのでは?
その思考が大気中の何かを利用して形になるとき
幽霊のように目やレンズに映るのだろう。

そう考えていました。

というか。。。その当時は
この世界のものではないものを見たことがあるとか
確かに感じたことがあるので、
そういう理解に及んだ。

と言う事なのですが、

例えば目で見えたこの世界のものではないものや人は
私の眼にはすべて
「てらっと濡れたビニールっぽく」見え、
それが動くときは
「BSが変な時のようにモザイク状に」見える。

いつも見えたり感じたりするわけではないので、
人生の中で5回くらいそう言うのを見たり感じたりした。

と言うだけの事ですし、
テレビのように何度もアプローチが掛るようなものでもなく
あまりにもさりげないので、後から「??え?」とか、が多いのです。

話しがずれそうなので(笑)
\(・_\)ソノハナシハ (/_・)/オイトイテ

前世の記憶が脳にあるとか
雲の上から、お母さんの所へ来ようと思ったの。とか
意識体が戻る場所があってそこからまたやって来る。とか
説明のしやすい状況が起きているんだろうと、考えていました。
*私にもこの世界では説明のしきれない古い記憶があるからです。

でも、そこから色々と変化してきて
つい最近まではこう考えていました。

やっぱり自分にとっては、死の向こうは本来の「無」なのかもしれない
それは、夢を見ない眠りが「無」であることと同じに。
時間もなく、体も無く、よって「無であること」も無い「無」。

まぁ、でも 
私はまだ死を体験したことが無いわけで、
その時にハッキリわかることを
別に今あれこれ追求しなくてもいいや、時間の無駄だな。

と思うと同時に
あちらが「無」だとすると、こちらは「有なのか?」
そもそもがこの世界はそのように相対的に存在するのか?

なんて考えてしまって、
最後はこう思うのです。

あははは。どっちでもいいけどきっと、
私はそんなこと考えたりしたくて今ここに生まれてきたのね~☆ヽ(▽⌒) って、
どっちでもなんでも、結局は構わない。

しかし、近代の電子的ネットワークのすごさで
わたしは画面から「リアルに」人が巻き込まれるようなものを
視られてしまう時代に移行してきていました。

それらを見るほどに、
「見ている自分(第三者)」であることが不思議になってきました。

つまり、一度も自分が当事者ではない事は何故なのか?
を、考えるようになってきたのでした。

いや、自分は大きな事故、災害の当事者である。
そう言う方もいるでしょう。
でも今これを読めていますすよね?
あなたは「生きて」いるし、
これを書いている当事者でもない。

人は自分の人生においてのみ当事者であって、
目に見えているすべてのものに対しては「第三者」であるだけのこと。

それが、
この世界をイリュージョンとして「個人が持ってるもの」と、
考える理由になりました。

だとすると、
イリュージョンの中に死が存在するのも変だな。
何かしっくりこないな。
まぁ、いいか、そのうち何かが答えをくれるだろう。

そう思っていました。(いつもの事なのですが(笑))

ああ、長い。。。^_^;
タイトルの話にこれではたどり着かない(T^T)

どうしようかな~と思いつつ、このまま進んでみます。

で、先月その答えを貰いました。
えっと、お名前を出してもいい話なのかが分からないので
ここでは伏せておきますが、

「地球にはね人類が絶滅するような危機は沢山やってきているし、実際に何度も滅亡しているよ」
「東北の震災もあれによって(連動し)日本はいったんすべてがダメになった、でもその瞬間に一斉に人類はシフトを変えた。」
「この世界はずっと意識体が一斉にシフトを変えていかにも継続しているように感じている」

(゜ロ゜)キャー!!答え貰っちゃった!!

そう私は思ったのです。

で、タイトルの話がようやくできます^_^;


私はこの体験が、いつの事だったか
その時車は何だったろうか?考えてみたのですが分らず。
ただ、神対(を読んだ)以降だとおもうので、16,7年前くらいとしておきます。

その日私は現在の家へ戻るところで
車は36号線を千歳方向へ向かって走っていました。

みぞれ交じりの雪が降り、路面はシャーベット状でした。
シャーベット状というのはその上でタイヤが回るだけになってしまうので
とてもハンドルの効きづらい路面です。

東豊線月寒中央駅のパンやのHOKUOのある、水源地通りとの交差点。
事はそこで起こりました。

歩行者用の信号が点滅しだしたので、少しだけアクセルを踏みました。
*そんな路面で強くアクセル踏むバカはいません。

そこに対向車線から右折を掛けてタクシーが曲がってきたんです。

ええ?と思いながらもそのタクシーが曲がって通り過ぎるながれだったので
少しブレーキを踏みました
*そんな時に強くブレーキを踏むバカもあまりいません。

ところが歩行者用点滅してもう赤になっているにもかかわらず。
渡ろうとした自転車が入ってきてタクシーは通り過ぎるはずだったのに、
私の車の進行方向の先で停まってしまいました。

「!!!!!!」
もちろん言葉もありません。
タクシーの後部座席のお客さんの恐怖でひきつった顔が私の眼の中に飛び込んできました。

もう、全てがコマ送りです。

右にハンドルを切れるか私はバックミラーを見たと思います。
そこまでしか覚えていません。

そのとき、ハンドルがだれかに持たれた。ように感じました。
少なくともそんな風に私はハンドルを切った覚えがありません。

車は綺麗に横に「U」の字を書くように、タクシーをかわしました。

右にずれて右車線に入ったのではなく、
横Uの字で右にかわしてすぐ左車線に戻ったんです。

私の身体は車の中で振り回されました。

「なに?今の何?」

タクシーにぶつからなかったことより、
何故勝手に車のハンドルが切れたのか?
もう頭がパニックで、

その後に今起こったことのショックで全身が震えて、
運転が危険と思い、その先のパチンコ屋さんの辺りで車を停車しました。

落ち着いてから家に帰りましたが、

自分の身体の振り回されようは
自分がハンドルを切ったのでは起こらなかっただろうという事。
シャーベット状の道路であんなに綺麗に横Uの字は切れないという事。
間近に見えた後部座席のお客さんの恐怖の顔。

ともかく、
私は助かっている。
神様がハンドルきってくれたの?
私があなたがいることを信じているから?

そんな風に考えていました。

何が起きたのかはわかりません。

そんなの錯覚だったんじゃない?と言われたら
絶対違うとも言い切りません。

でもそのときに考えた3次元的な
「神様が助けてくれた」と言うことは
もっと高次元の現象だったのではないか?
と、考えだしていたのは近年でした。

そこに、その「シフト」の話がぱきっとハマったのでした。

つまりそこで事故を起こして、
・死んでしまった私の人生の終わり
・死にはしなかったけれど死なせたかもしれない人生
・死にはしなかったけど大きな障がいを残した私

色んな次元があって、

私は見事にかわした方の人生の続きへシフトしたのかもしれない。

と言う事です。

では、考えうる他の次元のわたしは今どうなっているの?と聞かれれば
それはもう私ではないのでわからないとしか言いようがありません。

このような事をこのような解説で書きましたが、

私の人生の中では、
私が思ったり、考え至ったりしたことは逐一、
その後に本の中や他の方の文章の中に
ほらね。と言う状態で見つける仕組みになっているようです。
今まで100%がそうでした。

きっと私が書いたことで、それもやって来るでしょうし、
そう考えていたのでシフトの話しがやってきたのだなって思っています。

ああ、すごく長い話しになってしまいました。
読んでくださった方ありがとうございます。


このハンドルを切ったのは誰的な話を一度書いたことがあるような気がして
ブログ内検索を掛けてみました。
ありました。
そこでも今日の上の話と同じような事をくどくど書いていて^_^;
自分で呆れました。
読みたい方はどうぞ2011年12月のブログです。
http://mayoone.blog96.fc2.com/blog-entry-513.html

シフト2~天使の名前

先週、神戸空港に向かう飛行機に着席し、滑走路へと飛行機が移動する前の事です。

あれ?なかなか動かないな。
なんて思っていると
爆音が聴こえてきました。

ああ、自衛隊機の発着ね。
新千歳空港は航空自衛隊と隣接していて、
いつも爆音の後ろからすごい戦闘機が現れるのです。

で、その時も
全身を包むような爆音の後から、
目線から少し上を平行に飛ぶ戦闘機が見えてきました。

うわわ、さすがにすごい音!と思ってみていると
いきなりそこからほぼ45°の角度で上昇したのです。

目がまんまるになってしまいました。

ええ?そこから45°??
なんなの?すごい!

機内の右側席の人たちからも声が上がっていました。
うわ~~!すごい!
あんなに一気に飛行機って上がるモノなの?

私も、
あの角度って、いったいどんなGがくるの?
っていうか、
戦闘機ってあんなふうに上がることができるんだ。

あっという間に見えなくなった戦闘機、
その後に同じく2機が現れ45度の角度で空まで一直線に上がって行きました。

本当に単純にカッコイイ!と思いました。

それが見えなくなって、私の乗った飛行機はようやくスポットを離れたのですが、

今見た戦闘機の姿に私はこう思いました。

なるほど、人間はあれを作りたかったのね
あれを作るために戦闘が必要なんだ。

そうか、人類は何かをこの世界に創り上げたくて
戦闘と言う事象を必要としていたんだ。

*戦闘にまつわる「命」とう部分については私にはまた別の見解があります。

戦闘の無い世の中ではあれが作れなかったんだろう。
そう思ったのです。

戦闘機の技術を作るために戦闘が必要であったように

私たちは何かを創り上げたりするためにそれに対する色々な事象を
わざわざ作っているのだという事について

ほらね。

と見せられた。ということです。

この世界はそんな風にできていて、

人は想像したものを創造する質を持っています。

人は創造(クリエイト)するために想像(イマジネーション)し、
想像(イマジネーション)をつくるためにあらゆる事象(イベント)を起こすのです。

一昨日の話も今日の話も
それらがイマジネーションでありイベントだったのでしょう。

だから、一昨日と似たような話しなのですが、
今日の話も私には忘れられない出来事となったのです。

ある日の午後、私は売り場に立って、
そろそろ夕方の準備に入らなくちゃな、と思っていました。

エスカレータから降りてくる人々の流れをを見やりながら

私はいつまでこうしているんだろうか?
どうしてここにいるのだろうか?
ここから出ることができるのだろうか?
その時期私はずっと自分を憂いていたのでしょう。

そして、ため息をついて、こう思いました。

「もし私も天使に守られているのだとしたら、貴方の名前を今すぐ教えて」

*これは一昨日の神様の話とまったく連動していなくて
あれがあったからとかこれがあったとかと言うのはありませんでした。
時間的に実はどちらが先だったのかも覚えていません。
これも軽い気持ちでした。

そう思い振り返ったところに一組の母娘のお客様が立っていました。

なにがいい?

う~ん、これは?

それは昨日たべたじゃないの。

ああ、そうだよね~。

何気ない母娘の会話に、
母を早くに亡くした私は
いいな、羨ましいな。そう思っていました。

購入するものが決まり
ありがとうございます。
と、包装するためにその商品まで手を伸ばしたところで
その娘さんの肩にかかっているブティックの大きな袋が目に入りました。

それは見た事の無いロゴのお店の紙袋でした。

どこのブティックだろう?
こんなのあったっけ?
そう思ってなにげなく英語で書かれた大きな黒い文字を先頭から読んでみました。

GA(ガ
B(ブ
RI(リ)
EL(エル)



Gabriel
ガ・・・ガブリエル?!!

(・o・)。。。


神様もガブリエルも今考えてみれば

そうやって姿や名前を教えて私を励ましてくれたとしか思えません。

見えない力を信じることで、わたしは人生を変える勇気を持てました。

そこにいなくていいんだよ。
もうそこでの仕事は終わっているよ。
次の世界へいくんだよ。

そう教えてくれたのです。

それと同時に、
当時苦しかった私の心は
助けを求め本を読みましたが、

その苦しさこそが
今の私になるために
私が生み出したものだった。

そうも言えるのです。

どちらか、ではなく。
両方が。

シフト1~神様はいるの?

子どもの頃の不思議もそうたいしたことではなかったので、
大人になってからの話もそんな感じだと思ってください(笑)

でも続きを書いてみようと改めて色々思い出してみると、
それらすべてが私にとって「シフトチェンジ」だったんだなって思いました。

それまでの私と
それからの私は
同じ層にいない。

そこまでの私もどこかの層で存在し
今の私も今ここの層にいて、
また色々なタイミングで移動をしています。

これは私だけがしているのではなく、
皆さんがされていることだと思っています。

さて、この話は何度かしているので聞いたことがある方もいるかもしれません。

私がまだ派遣でデパートにいた時の事です。
18年くらい前でしょうか、
精神世界の本を読み漁り始めていたころです。

職場ではとてもよくしていただき、
ギャラも良くわがままも聞いていただけ
なんの不満もない状態だったのですが、
私の心はその仕事に対して疲弊していました。

以前は好きだった仕事が色を失って、
意欲が戻らなくなってしまっていて、
玄関で靴を履いても立ち上がるのが嫌。
そんな日が続いていました。

そんな私を唯一助けたのが
通勤時に読める「本」と、
そこから広がる思考を楽しむことでした。

その朝私は「神との対話3」を持って出ました。

何故仕事に行くのが嫌なのかうすうす気が付いていたので
それらを振り切るために誰かの言葉が必要だったのです。

本を読んで少しは楽になったつもりでしたが

地下鉄が大通駅に着き、電車から吐き出され
通勤の人の流れについていこうにも、やっぱり足も心も重たいのです。

やっぱりつらいなぁ。そうつぶやいて

神様がいるなら今すぐその姿を見せて、

そう願いました。

地上へ上がる階段は狭く、通用門に向かうため知り合いであふれ
挨拶をしているうちにその願いもどこかへ行ってしまったのですが、
階段を登り切って大きな通りを左に曲がり、
次を又、左に曲がる角で私はそれに気が付きました。

人の流れを川に例えたら、その瀬を分ける岩のように、大きな、動かない人がいたのです。

それは、たまに見かける浮浪者でした。
浮浪者にしてはまだ若く、背も大きい、ぼうぼうのひげ面です。

見ているとひとの流れに対して直角に、東を向いて
両手を高く上げると、ビルとビルの間にようやく出ている太陽に掌をかざしていました。

春になりかけくらいの頃だったのだと思います。
吐く息が白く空に向かい、まぶしそうに目を細めていました。

何しているんだろう?と思ったら、

太陽にかざした掌を胸におろし、手を合わせて祈っているのです。
それが2,3度続きました。

ああ、あれは太陽の温かさに感謝しているのだわ。
きっと夜通し寒かったので太陽の暖かさを待ち焦がれていたんでしょうね。
そう思いました。

ボロボロの服を着てぼうぼうの髪とヒゲ、
大きな体を少し前に傾げたところに太陽の光が差し、
そこだけキラキラと輝いていました。

やだ、まるでイエスキリスト。

え?!

そう思ったところで私はさっきの自分の願いを思い出したのでした。

思わず私も立ち止まり、人の流れをせき止めてしまいました。
私の時間は一瞬止まり、涙がこみあげてきて動けませんでした。

これらはホンの1分くらいの事でした。

ちなみに彼をその場所で見たのはその時かぎりです。

だってどう考えても大通公園の方が太陽は当たります。
その場所で太陽の暖かさを得る必要は彼には無かったと思います。

象徴的なその姿はずっと今も私の中にあります。

この話には後日談があって、
その後私は仕事をやめ、大学へ行き、
その浮浪者を見かけることはなかったのですが、

いつか彼にあったなら、煙草を一箱あげたい。
そう思っていました。
当時はそこらにあった灰皿を漁る姿を見たことがあったからです。

それは10年後(多分)に訪れました。
春の暖かな日でした。
私は大通り公園の8丁目くらいのベンチでたばこを吸っていたのですが、
そこに彼が現れたのでした。

私は開けていない煙草を一箱持っている事に気が付き、
胸が高鳴りました。

かれは前方10メーターくらい向こうにいて、落ちている煙草?がないか地面をさがしながら
こちらのベンチへ近づいてきました。
そして少し向こうの灰皿を覗き込んでいます。

胸がドキドキして声がでません。

こちらの灰皿に近づこうとして、
ふと思い出したように私を振り向きこういいました。

おねえさん煙草一本くれないかな?

もちろんです!もちろんですとも!!
わたしは出ない声で叫び。

バックの中ですでにつかんでいた煙草を一箱差し出しました。

これをどうぞ。

そうしたら彼はちょっと驚いた顔をして、

いや、一本でいいんだ。
そういました。

え?でも、これを、

いや、一本でいい。

私は心からがっかりしました。
ずっとずっと、一箱あげたいって決めていたから。

せめて2本、とそれを差し出すと。
ありがとうと言って彼は去って行き。

あ~あ、と、後姿を見つめていたら
なんだか「!!」とでもいうように彼は立ち止り
きびすを返して戻ってきて、
やっぱり一箱貰っていいか?と聞いてくれました。

もちろん!もちろんですとも!!
また声に出ない声で叫び、

私は願いを叶えることができました。

宙奏曼荼羅の意識

一億一千四百万年前のある朝、夜が明けて間もないころ、
昇る朝日を受けて一輪の花がぽっかり開く。
地球と言う星の最初の花だ。

すでに何百万年か前から地球には植物が茂っていたが、
この最初の開花は植物と言う生命体の画期的な進化と変容を告げる出来事だった。

しかし最初の花はたぶん長くはもたず、
その後も依然として開花はめったにない特殊な現象にとどまっていたことだろう。

花々が広く咲き誇るための条件はまだ整ってはいなかったはずだから。

だがある日、植物の進化は決定的な閾値(いきち)に達し、
地球のありとあらゆるところに

――それを目撃して認識できる存在があったとすれば――

色彩と香りが爆発的に広がり始める。

エックハルト・トール


「宙を奏でる点描曼荼羅画」は宇宙を図形で奏でるような作業です。
花もまた、宇宙の心をその形で奏でているのだと思い
エックハルトの言葉を借りてきました。

この宇宙はとても精神的なものです。
あなたの精神によってその姿を変える「場」なのです。

「宙を奏でる点描曼荼羅画」は宇宙からあなたを通して花のようにこの世界に生まれ

あなたの求めるものは全てあなたの中にあることを気づかせ、
すでにあなたの願いが全て叶えられている事を教えます。

宙奏曼荼羅を描くことによって
それが理解できるように、そしてそれらを使えるようにあなたの場を整えてゆきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

宙奏曼荼羅のHPが変身するので
お蔵入りする文章をお引越ししました。



意識の一斉に開く瞬間
それを夢見させてくれた冒頭の文章は↑この本の冒頭部分です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
宙奏は点描曼荼羅の「描き方」と言うものではないのです。
宙奏を描いて行く中で到達するあなたの宇宙に出会えますように。
そう思って書かれたテキストなんですよ。
知っていましたか^^?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
宙奏曼荼羅はアメブロって決めているのですが、相当長い間アップしていなくて^_^;
そもそも私をアロエと宙奏にわけるってのが難しい事なんだわ。
と、思い、こちらで。

子ども時代の謎その3

1、2、と書いてきて思ったのですが、

小さなときから今まで言ったり書いたりしてこなかったのはなぜか?
少しわかってきました。

そう、たいした話ではない。ことと、
どこか私は、それらの体験(多分)を自分から切り離して考え感じていたってことだと。

それは
今の私≠幼少時の私
なのに、
今の私+幼少時の私=私

と、捉えられることに違和感がある。

そんな感覚があるのです。
この説明は自分でも難しいので書かないことにします。

さて、3つ目の話しですが

これも大した話ではありません。

そういう事があったというだけです。


私の言っていた小学校では橋を渡って近くにある中島公園と言う所に写生に行きます。
市民の憩いの場でもある大きな公園です。

その公園には池のほとりに「豊平館(ほうへいかん)」という古い建物があって
池を挟んで対岸(と言うほどの距離は無い)から、豊平館を描きます。

私は絵がとても下手なので^_^;
その豊平館も妙なことになって右側が大きく空いてしまいそこに「人」を描きました。

絵の具で背景に緑色を入れたのですが、
人の周りは人の形にぐるっと空けました。
人の周りは白かったからです。

先生が来てちゃんと塗りなさい。と言われた時に私は、
「だって、人の周りは白くて光ってるから・・」と言いました。

先生がその時なんて答えたかよくわかりません。
それでも塗りなさいと言われたのだと思います。
結局ちゃんと塗った覚えがあるから。

幼少時に私がずっとそう見えていたという感じは覚えていません。
それまでに人を描くときにどうしていたかも覚えていません。

ただ、自分なりに先生が言ったことにすごく不満を持ったことを覚えています。
だって、だって、そうなのにそう描いたらダメなの?と。

随分大人になってから、あれはオーラだったのかな?と思いました。

オーラと言えば
10年くらい前に「ぐわぁ!すっごい!これはオーラだ!!」と思ったことが一度だけあります。
向かい合って話していた人の背後の壁が、もやもや、もやもやしているんです。
湯気が立ってゆうらゆらするようにも見えました。
私はコンタクトレンズがずれた?それともホコリ?と思って
こすってみるのですが、もやもやは消えません。
何だろなんだろと思いながら話しをしていたのですが、
そのうち、その揺れが光ってる?と思ったとたん
お釈迦様のような幅広の光輪がオーロラのように動きながら輝きだしたんです。

どんなに目を凝らしても、見間違いではなく、胸がドキドキしました。
本当に美しいオーラだったんです。

その人は
幼い時から私をかわいがってくれた人で
倒れるほど良く働き
明るく真面目で、
控えめな心優しい人
本当は苦しいことが沢山だったのに
愚痴を言わず今に感謝している人です。

今も会うたびに気にしていますが(笑)
それ以降見ることはありません。

そうか。。。

私って一度だけすごい事を見る才能(?)なのかもしれない(笑)

そんな大事はコントロール出来やしないから。
そう思いました。

次回から
一度だけすごい体験をしたシリーズを始めようかしらヘ(__ヘ)☆\(^^;

子ども時代の謎その2

昨日の話では

どうも宇宙人に連れて行かれたのではないか?
のような流れになっていますが、

1つ言っておくと、

私は宇宙人や霊体はそこらに沢山いると思っていますし、
だからと言って何がどうってこともありません。

具体的に地球上に同居している(同じ次元に)とは思っていないんです。

ですのでUFOとか宇宙人というのも
たまたま次元の破れから見られるだけじゃないかなってことです。
エリア51とかはそこの研究をしているんじゃないの?
と考えています。

だから居るといえば居るし
居ないと言えば居ない。

それが、ずっと謎のままの理由でしょう。

なので、考えたからってどうってことが無いのです。
実際に私の生活に関係がないですし。

と言うことで今日は2つ目。

これは小学校4年生くらいだったと思います。

これもずっと気になっていて
あれからどうしたんだろう?とか
なぜ急に戻ってきたんだろう?とか
色々と混乱した話です。

我が家のちかくに「わかめちゃんのオバサン」という女性がいました。
当時ススキノにあった大きなクラブHというお店に働いていて、
そこでの源氏名が「わかめちゃん」だったんです。^_^;
おばさんには、叔母さんとそっくりな顔をした息子君が一人いました。

名前も忘れちゃいましたが、妹と同じ学年だったような気がするので
4歳年下だったと思います。

ある日貸本屋さん(時代が古くてごめん)に行こうと家を出ると。

上から下まで真っ黒い服装(というか今でいうと全身タイツ)の二人に囲まれた
その息子君がいました。

私は恐くて動けなくなったのですが、
どうもその2人(息子君を入れて3人)に私は見えていない様子でした。

息子君は恐がってぼうぼう泣いているのですが、
大人のその二人は黒くて短い棒のようなものを持って

それで息子君を縁取るようにしたとたん、
そこに息子君の姿が無くなりました。

私はあわてて家の中に逃げ、
布団をかぶって息を殺していました。

幸いに私はそのまま大丈夫だったのですが、

それから数日間その子がいなかったんです。
教室までそっと見に行きましたが学校でも見ず、

うちは銭湯でしたから
わかめちゃんのおばさんは毎日息子君を連れてきていたのに1人で来ているのも怖かったです。

いつも子供連れで、滅多に1人のことは無いのに
本当に不思議なんですが
それについて何も誰も聞かないんです。
天気の話や普通の何でもない事は話しています。

私はドキドキして、
どうなったんだろうどうなったんだろう?
悪い人に連れて行かれてしまったんじゃないか?

なのにどうしてわかめちゃんのおばさんは泣いていないんだろうか?

1週間くらいして、何事も無く
息子君を学校で見かけました。

ビックリしましたが
何も変わりもせず、そのまま。

それから私は息子君を見るといつも「違和感」を持っていました。

時折
あれはやっぱり夢だったんだろうか?
あんなに泣いていたのに、何にもなかったような感じだし、
そうも思いました。

でも、あの一週間くらいの奇妙な感じが忘れられませんでした。

大きくなるにつれて彼を見かけることはなくなり、
この話はそのままです。

で、これを書いている今思ったのは。

私もひょっとしてそうだったんじゃないか?と

どうしよう。初めて話が繋がってしまいました。^_^;








子ども時代の謎その1

私は幼いころの記憶ってあまりありません。
一番古い思いで、と言われてもまったくピンときません。

そんな中で物心ついたときに味わった不思議をいくつか手に握りしめて大きくなりました。

なぜだか、これらの話は今まであまりしないで来ています。

もう書いてみようかな?
今朝、ふっ、とそう思ったので、
これを書いています。

そうたいした話ではないですけどね^^
*あ、だからしなかったんだ!

私はその日学校(小2くらい)から帰ってランドセルを置き、
すぐに裏の大きな広場でお友達とままごとをするためにままごとセットを持って向かいました。

ままごとセットは、プラスチックのものや、古い瀬戸もの
結構かさばるのをがんばって運んだんです。

その広場には、家を取り壊した後があって、お風呂場がタイルのまま残っていました。
そこがお気に入りで(笑)そこで遊んだんです。

確かその時の友達は
裏の家に住む一つ上のゆうこちゃんと言う女の子でした。

で、確かに敷物を広げて、ままごとセットを並べ遊んでいたはずなのですが、

ふと気づくと、私は家のソファーで目が覚めました。
何が何だかわかりませんでした。

家のものに、聞いても
夢見てたんでしょ?と、取り合ってくれません。

夢?
では、私はいつからここに寝ていたんでしょう?
不思議で不思議で
それを聞いてもみんな「さぁ?」と言った感じでした。

どんなに頑張っても、学校から帰ってきてからそのソファーまでの記憶はありませんでした。

*思い出したことがあって追記
私は広場に置いてきてしまった(としか思えない)ままごとセットが心配で仕方ありませんでした。
取りに行きたかったんだけれど夜になっていたので行けませんでした。
翌日、ゆうこちゃんがゴザと一緒に届けてくれていた話を聞きましたが、
それで一層私は分らなくなってしまいました。

ということで私は
ず~~っと、そのことが気になっていました。

だからそれを今も忘れていないのです。


こんな「??」の話はあと2つあります。
続きはまた^^

イリュージョン

先日、ある会合で本当に久しぶりの人間に会いました。

よく考えたらそこにいるのも当然だけれど
頭の片隅にもなかったので、正直
「おお!いたんだ!」
そう思ったのでした。

向こうも私の登場は想像していなかったと思います。

眼が泳ぎ。
少し狼狽したようです。

私の口から出た言葉は
「わぁ〇〇さんだ!久しぶり!元気そうでよかった」
そんな感じで、

多少セリフっぽかったかもしれないけど、造ったものではなかったし、
自分では上出来だったと思いました。

だって、それ以上もそれ以下も、もう言葉が無かったのです。
本気で懐かしい感じの方が%を占めていたから。

向こうは
「ああ、」「ええ」「おかげさまで、えへへ」という感じでした。

すでに着席してリラックスして話が弾み、すっかり気を抜いているところに私が現れたので
それが彼女を硬直させ狼狽させたのだと思います。

今、テンテンしててふとそれを思い出し、こう思いました。

なるほどね。
自分が自分の中で正しいのであれば
なにも狼狽する必要はないわけで、

そうか、彼女はあれこれ理由をつけて自分を正当化しようとはしているけれど
結局それに失敗して、自分でも奥底はそう思えていないんだな。と、

でも、
だとしたら
あなたのいうスピリチュアルアドバイザーってってなんなの?

見えるだとか聞こえるだとか降りてくるだとか
そんなことより、
こうした瞬間に目が泳いで狼狽するような人生でいいのね?

そう思ったのでした。

時間が経つにつれ少しずつ
「その人らしさ60%くらい」に上がっては来ましたが、
MAXにはなるわけも無く(私がいるから)

こちらを気にしつつ彼女が話す内容は
これだけの時が経っても何も変わっていない事を証明していました。

私が精神世界を知って、
私が生きている世界の真理って何なんだろうか?
と考え始めた時に、(大昔です^_^;)

そういう事を考えている人たちの世界に足を踏み入れましたが、
その界隈にも、世俗並みいろんな人がいるとわかりました。

正直がっかりでした。

「知っている」という事もすべてお題目
夢の世界の言葉

多くは
自分と言う存在から逃げて歩いている人で
カウンセラー、とかヒーラーとか書かれた名刺を持って、
眠剤や安定剤を飲み、
家族とも折り合いが悪く。
自分すら助けられないのに
代替して人を助けてあげたいなどと言う
昔はこの世界にはそんな人たちがゴロゴロいたのです。

現実社会で依存できなくなったので
精神世界に依存対象を移しただけの人たちです。

そして大抵は敵のような親に依存するしかない経済的状況で。
あれをするにはこれがなくてと。
答えはいつまでもぐるぐると出ない。
どの口でカウンセラーだとかセッションをするだとか言うのだろうって思っていました。

決定打が自分で関わったスピイベントでした
一部の亡霊のようにぐるぐる移動する人たちをみて
ああ、こんなところにいちゃいけない。
本気でそう思いました。

考えたらそれは社会状況のせいだったかも知れませんが、

今となってはもう、それは
「私の為に見せていただいていたんだな」としか思えません。

そうならないためにはどんな自分であればいいのか?を
十分に考えさせてもらいましたから。

結局は今回の事もそう言う事で、
わたしは自分が狼狽する側ではなかったことを安堵する経験をしただけなのです。

悟りたい
そう思うなら悟れないし
悟れた
そう思うならそれも幻です。

悟りなどない
在るのは自分だけ。

それが私たちが生きるイリュージョンなんだと思います。


この記事ってすごく色々と書きなおしました。
書く度に、再現した中の状況のニュアンスが変わっていくのです。
それで書きなおさずにいられなくなるのですが、

そうか、今を変えることで過去を変えるというのは、
この、「ニュアンスが変わる」事でもあるなぁ、と思いました。

全てはイリュージョン、幻想ですね。

生きていて、生きていくこと。

5年目の3月11日がやってきて、

亡くなった人、
まだ戻ってきていない人たちの事を思う。

今はもう安らいで
きっとこう言っている
「私の分も十分に生きて。」

田畑や里山も昔のままの姿でテレビの中に映し出されると
ああ、こんなに素敵なものが二度と戻ってこないんだなって思う。
どんなに寂しい事かと思うけれど、

わたしはそれを想像しかできない。
その人になってあげられない。
私は私しか生きられない。

私の中で津波のきた時間を思う。
実際には今頃の時間に多くの命が持って行かれた。

あの夜はとても寒かった。

日本全国、被災地ではなくても
どこもかしこも何もかもがひっくり返ったようになっていた。

あの夜から5年が経つ。
その間も
たくさんの、
ほんとうにたくさんの愛が、
世界中から届きつづけている。


国のすることに
私は不満もある。

では、
どうなって行けばいいのか
しっかり、精一杯
私は生きてイメージしたい。

これからも
みんなは生きていて、
みんなが生きていくのだから。

二の腕の後ろが寂しい人はいませんか?

自分をハグする。
1450835224829.jpg

このことと宙奏曼荼羅の効果があまりにも似ていて、
ああ、やっぱりなぁ。

そう思ったのです。

自分で自分をハグするととても不思議な感覚になります。

二の腕の厚み(私の場合・(爆))を掌に感じ、
掌の温かさを二の腕の後ろで感じると、

掌がじぶんなのか、
二の腕の後ろがじぶんなのか
かわからなくなるのです。

生まれてからこんなに長いこと、
自分で自分を抱きしめることをしていなかった。
それに気づかされます。

大好きだよ、愛しているよ
どのくらい自分に言えるか?
それを知ります。

初めは形だけでいいのです。
腕を回して自分を抱きしめてみて
二の腕の後ろが「寂しかった」と言っていないか
あなたに試してみてほしいのです。

あなたの抱えている苦しみや悲しみのために
あなたの周りが厚い殻になっているなら、
あなたの手でしかそれを剥がせません。

あなたの手だけがあなたを助けますよ。

最初は何もわからなくても
どうぞ、自分をハグして
二の腕の後ろの寂しさを救ってあげてください。

一日に何度もそうしてみてください。

我慢しないで泣いてみてください。

いつかあなたの掌があなたをそこから助け出します。

それは必ず。です。

名こそ惜しけれ~この国のかたち

このブログを書きながら頭の中を流れている曲がありました。
それもまたなるほど(笑)


私は右でも左でもないけど、
自分が生まれたこの日本と言う国が素晴らしいと思っています。

集合的に(要らぬタイプの)妙なプライドを持っているところがややこしいとは思いますが、
多くはまじめな職人気質で、良くも悪くも自分を「恥」に置きたくない。

誰知らぬとも矜持が崇高である。
孤高の国の孤高の精神(であろうとしている人)がいまだ多い。

それを司馬遼太郎は
「名こそ惜しけれ」と表現しました。

「名こそ惜しけれ」は平安時代の女性の歌の一文で
「つまらぬところで名がたったら悔しいではないですか」
というような意味だったと言います。

司馬遼太郎はこの「名こそ惜しけれ」と「公の意識」をもって、
日本人としての特質を解きました。

その特質はいつから出来上がったのか?については話が長くなるので
ご興味があれば「この国のかたち」を読んでいただくのがいいかと思いますが、
私は武士の成り立ちから、なるほどなぁ~っ頷けたのでした。

誰も見ていない時であっても清廉であることが矜持。
そう思う人々が多い国。(だった?)

他に国民的な意識としてそれを持つ国は他に無いと。

これは自分の心の置き所に敏感かどうかの問題で、
それを自然を神様として培ってきたからこそ、その様に成り立ってきた。
私はそう思うのです。

誰がどうであれ

私はそうならない。
私は私に恥を持たせない。

その為に全て、自分の目の前に起きていることは
自分が創り上げている事を認めるのです。


 

いかにひそかに私たちは私たちを制限しているのか

この話に素晴らしく感動した私です。
それでここ最近の出来事を思い出しました。

1455867585039.jpg

1455867578638.jpg

私たちは環境や自分の思い込みで
「ここまで」と言う制限を背負っています。

「ここまで」なら安全で自分の気持ちが最小限の乱れで済む。
そう決めることで色んな事を諦めているのです。

それに気が付いてそこを出ていく人もいれば
なんとかそれが枠なら広げようとしている人もいます。

宙奏曼荼羅を描いてくださっている方たちには
描いていくうちの気づきによって
ここを出ようと思います。と、勇敢なメッセージを下さる方もいます。

また、なんだかんだ口ではああしたいこうしたい敵な事を言いますが
その実、諦めている人もいます。

諦めている人の傾向は顕著です。
「自分はこうでああでこういう人間なの」と
先に身を守ろうと自分に関する口数が多すぎます。

諦める理由を聞いてもいないのに、
こちらは無理やり聞かされている気分になります。

でも。
私もそうだった時代があるかもしれません。
振り返れば必ず自分には「時代」があります。

だから言いたいのは
1つの時代を延々と引きずりながら生きるのは
もうやめたらいいと思うのです。

バンブルビーの小さな身体の大きな魂に見習いましょう♡
きっとあなたの魂もそうしたいはずです。


龍話し

プラクティショナー講座の後、
私はよく龍の話をするのですが、

私と龍の具体的な関係はそう古くはなく、
宙奏点描曼荼羅を教えるようになってから、
なんですね。

ネットで講座をするという事を承諾した時にまずかわした約束があって
*今考えたらそれも曖昧(相手が)

3-3
阿寒湖でこの子に会ってからより具体的に

その関係はどちらかと言うと、
お互いにお互いをフォローするというか、サポートする約束をしている。

どうしてか?というと
お互いに目的が一緒だから

話題になっているこの本の中にもそのこと(お互いの目的)が出ていました。



この本を紹介された時に

??と思ったのは
龍を使うというより、
どちらかと言うと使われている感が多かったから。

「龍使い」というより
「龍使われ」なんですけど?

あ、確かに使わせてもらってもいますが。

ですので、お互いにお互いのできることを交換している。
そう言う約束の付き合いなんですよね。

で、「使う」と言う感覚が全くなくて
ええ?そんなことができるの?って☆ヽ(▽⌒) 

読んでみて分かったのは

なるほどね~。
私は龍使いどころか龍だったんだ。
だから、龍使いのみなさんに出会って
使ってもらうことを悦びとしている。

そう言う単純な事でした。

私と龍の目的の上では

アロエラーのみなさんも
曼荼羅のみなさんも
同じ存在で同じ位置を到着地点としているわけです。

気になる方はどうぞ読んでみてください^^

Vibration

この世界は振動している
見えないいくつもの、振動している膜があって
それこそが創造のスクリーンなのだ。

音の振動が砂鉄に模様を作るように、だ。
あなたの創造はそこで成される。

なのであなたの目の前のものはまさしくあなたが作ったものである。

成され方の仕組みは
投影による波動。
波動による投影。
伝えるのは羽音のような振動(Vibration)

単純で明朗なものほどそれは成されやすい。

だから全ての発明家たちが迎えた閃きはすべて
眠りの前の一瞬、脳が空っぽになった時にやって来るのだ。


あなたの周りのスクリーンに要らぬ干渉を受けていないか、
この世界では気にした方がいい。

それは他人の念の干渉もあるが、
多くは自身の「我の感情の干渉」によって起きる。

単純になることだ。
要らぬ感情を弄んで大きくしてはならない。

**************

これは2013年8月の私のメモ帳から。
私のメモ帳はPC内にいくつか散乱していて
たまに「これなに?」と思いクリックすると
何年も前の自分がそこに生えたかのように現れる。

いつもそれは完璧なタイミングで
私を驚かせる。

あまりにもいつも完璧なので、
自分の文章にはちゃんと「わたし」と書くようにしている。

他の人の言葉の場合は名前を書くようにしている
出典させてもらうときに便利だから

これは本当に自分が書いたのか?と分らなくなるから。

上の言葉と一緒に収納されていたのが
youtubeのアドレスとそれを訳した下の文章。

自分で訳したのか?も分らない。
どなたかが訳したものをそのまま頂いたのかもしれない

でも美しいから載せておこう。



この動画も初めの文章も
私にとって何かが産声を上げた時間のもの。

どんな時もすべて完璧。

*******************

より高い意識にあなたの振動周波数を高め癒す(治す)

旅の準備はできましたか?
この度は覚醒の旅です

覚醒はあなたの魂全てのポテンシャル

今です

これは創造の物語です





源 (起源)(生命の種)

生命の卵

生命の花

生命の果実

創造

それらと分子で私たちは生まれた。

地球



大気



スピリット

創造が始まりそして無限の創造へ

私たちすべては創造であり

私たちすべては共同の製作者だ

あなたの中の創造主の素晴らしさに覚醒する準備を 今

私は覚醒を選ぶ

私は覚醒者

わたしは想像

私は天の意思

私は天の愛

私は天の声

私は天の精霊

私は天の知恵

私は天の霊(soul)

私は月の

私は太陽の

私は神、女神、精霊

私は全てにおいて1つ

今一緒に(意思・意図・目的)することは

あなたの波動をあげ

あなたのより高いレベルにアチューンメント

私は波動(振動している)

私にとってより高い振動で

私の魂の最高の可能性について

そして人間性の成長に

そして創造のすべてに

すぐにこの愛を注いでください。

私は愛

私たちは覚醒されます

わたしたちはそう、一つの振動エネルギーに存在します。

多くの魂の上にこの波をフォワードしてください...

かれらも再度つながることを体験できるように

目ざめはそうします...







人は自分で決めているようで実はそうではないという話 2

1を書いたのが11日なので、一週間たってしまったでしょうか^_^;?
最近私は仕事が途切れるということが無く、常に「やらなくてはならない事」に取り囲まれています。
だからか。。日中はひたすら「毛布にくるまれぼ~っとする」ことにあこがれています。

あこがれをゲットする日もあれば無い日もあります。
さて、今日はどうでしょうか^^

先日のダン・アリエリー先生の話の中で
「決定しない事で現状を保つ」という意思決定にしないという意思について

先生はそれを「デフォルト」と表現していたのを思い出しました。
なるほど。

さて、2です。
「選択は自分がしていると思っているけれど実は巧妙にそうじゃない」という話し、

これはとある本の販売サイトだと思ってください。

①オーディオのみ   59$
②本          125$
③本+オーディオ   125$

さて、あなたはどれを選びますか?

このアンケートで一番多かったのは③を選択した人でした。

では次に①と③しか選択肢がなかったらどちらを選ぶでしょうか?
つまりこういう事です。

①オーディオのみ   59$
③本とオーディオ   125$

これは圧倒的に①を選ぶ人が多かったわけです。

条件は全て同じで、②と言う選択肢が無いだけです。
それでもこれだけ人は誘導されているわけです。

面白いでしょ?

これを見てへぇぇぇって思ったのは。

たまたま今、私の講座では、以下のような選択ができるようになっていることを思い浮かべたからです。
それは誘導が目的ではなく、なるべくその人が受講しやすい方を選んでいただけるように、
考えたら同じ事、を目的としているので、このようにしているわけですが、

①データのみ  9900円(3か月指導付き+2000円でテキストを購入できる権利)
②テキスト本(希望でデータはサービス・3か月指導付き)12000円

これを先ほどのものに近づけるためには

①データのみ 9900円
②本      12000円
③データと本 12000円

講座条件は同じですから、
デフォルトになる事(つまり何も選ばない状態)になるよりは
このように並べて提示して案内した方が、
その方は決めやすい。

と言うことになります。

私の講座のように、興味を持つ人と持たない人がハッキリしている分野には

まず、「《決める》を先に選んでもらう」ことが大切かも知れません。
つまり「デフォルトを脱却する」と言う選択です。

ダン・アリエリー先生は大きなやけどの跡があります。
その治療中
・ガーゼは一気にはがす方が痛くないか《強く一瞬痛い》
・ガーゼはゆっくりはがす方が痛くないか《弱く長く痛い》

どちらかを追求していたそうです。

結果は後者、
痛みとして少ないのは後者の方で
しかし看護師はほとんどすべて「一瞬痛い方が患者にとって負担が少ない」と決めていたそうです。

みんながそう思うことによって、患者は苦痛を長引かせていた。
真実というのはこんな風に「わかってない」事の後ろにあるのでは?
と、問いかけるのです。

う~ん。ワクワクしますね。

実はその次を録画しているのですが、視る時間がありません。
ああ、毛布にくるまってそれを視たい!
誘惑に負けそうです(笑)




人は自分で決めているようで実はそうではないという話 1 

先日Eテレで「白熱教室」を見ていて、
そうではないけど「そうか」と思ったことがあって少しお話をしてみたいと思いました。

そこで紹介されていたグラフは
国別の「臓器提供カードに同意している人」の数を現わした棒グラフでした。

全てヨーロッパの国々で
左三つの国は低く 右三つの国は低い方の3倍くらいの高さになっていました。

この違いを「なぜか?」と考えてみる話でした。

左と右では一見似ている国があり、宗教観や生活の背景ではなさそうです。

ではなぜか?

それはアンケートの方法の違いだったんです。

低い方の国はこういう質問にチェックボックスがついています

□あなたは臓器を提供しますか?

高い方の国はこういう質問にチェックボックスがついています。

□あなたは臓器提供をしないときめていますか?

です。

文章は英語で数行あってこんな簡単なものではないのですが大まかにはこういう尋ね方だったようです。
「提供しない」にチェックを入れなければ「提供する」ことになります。

なるほど、ですよね。

どちらもチェックボックスに☑を入れないという点で同じだったのです。
その結果がその棒グラフの数値の違いだったようで、

チェックはボールペンがあれば、0.5秒くらいで出来る行動です。
これは「その行動を選ばなかった」という事だと。

考えた結果そうしたではなく。
考えたけど答えが出せない部分なのでそのままにした可能性が大きい。

つまり人は「深く考えなければ答えが出ない
または深く考えても答えが出ない問題には

どちらにしろ行動(この場合チェックボックスに☑を入れる行動)をしないのだ。と。

これは、そう言う判断をしている人が多いということで
私はまじめなのでちゃんと考えて選びますけどね。

そうなんだ~。
選んだのは「今チェックしない」ってことだったんだ^_^;

これはたまたま私にとって真面目に考えるべき問題だから考えるだけですが、

普段は似たようなものかしら^_^;?

急遽タイトルに「1」を追加した私。
話しはまた続くのでした。

しばしお待ちを。

会計業務が今日中に終わらないとならない「案の定」の状態のわたしです。

わたしなんか、と思っているあなたに

「わたしなんか、」と思っているあなたに、大切なお話しがあります。

言葉尻ではなく
あなたが心からそう思っていたり、
また、そう思っていないにせよ、
そう言った阿りかた(おもねりかた)をするたびに

周囲に悪い影響を与えます。

すぐにやめてください。

あなたはもう自分の言動に気づく事さえないくらい鈍感になって
「わたしなんか」と頻繁に自分を貶めますが
世間ではそれを「卑下」と呼びます。

自分を卑下する事で相手を立てることなどできないのです。
あなたの周りのすべての人はあなたの世界に関わっている人たちですから
実は皆あなたと同じ高さに存在しています。

あなたがどんなに頑張ってもあなたに見えている世界に置いては
あなたが自分を下に置こうとすると周りも下に、
上に置こうとすると上に並ぶという性質をもっているんです。
この影響を一番受けやすいのが家族です。

あなたに見えている世界では
あなたが責任者なんです。

例えて言うなら
あなたは「わたしなんか」と言う沼に住んでいて
周りの人をその沼に引き込もうとしているにすぎません。

そしてそれは成功しないのですが、
その理由は
すごい人たちであれば、あなたの手を引くことがどんな愚行か知っているので
気がかりでも置いていくしかなくなりますし、(*最善の方法としてあなたを信じ)
同じ沼に住んでいる人たちなら
お互いにその必要が無いので引きこめません。

そこはそんな沼なんです。

しっかり聞いてほしいのですが、

あなたの細胞は36億歳です。(*34、38等諸説あります)
ある時、わずかなバクテリアが生まれ、後に酸素の嫌いなバクテリアが酸素が好きなバクテリアを取りこみ、
そこから飛躍的に微生物は様々な枝を伸ばすかのように形を変えてきました。
簡単に言えばその枝の一つが私たちです。
このことを良く考えてください。

36億年脈々と続いてきて、お子さんがいればそれを次世代にバトンとして渡した
そんなすごい細胞の集まりです。

一方、あなたの脳で使われている記憶は、とりあえず生きてきた年数分です。
それっぽっちの年数で判断して、
36億歳の細胞を沼に沈めたまま人生を終わるのですか?

「みんなはすごいなぁ。でも私なんて、、、」

そう思っていたにせよ
もしすごいと思える人に囲まれているなら、あなたはその沼を自力で出なくてはいけません。
今の段階でそれは最後のチャンスだからです。

あなたは人に面倒をかけるのがきっと嫌いでしょう。
その度に申し訳ない思いになるからです。
どうして申し訳ないと思うかと言うとその人を煩わせるのが
自分のふがいなさに原因があると、認めるのが嫌だからです。

あなたは正直にモノを言うのがきっと苦手でしょう。
表向きは波風を立てたくないという事でしょうけど
自分に返ってくる反応が恐いんですよね?

それもこれもすべてひっくるめて
全部「単なる癖」です。

根拠も忘れてしまっているほど「古い癖」なんです。

癖なので、考え方で心の在り方を治そうとしても効果的ではありません。

癖は心ではなく行動なので、行動でしか直せません。
つまり新しい癖で、行動を上書きするのです。

「わたしなんか」を考えたらすぐにこう思い直してください。
「私は36億〇〇歳!!それだけですごい!」

「わたしなんか」という、矮小な考えがやってきたときは
自分は36億〇〇歳なのだという「まぎれも無く本当の事」で塗り替えてあげてください。

そうするとあなたは周りの人々を高い位置に押し上げることができます。

あなたは表向きはどうであれ、責任感が好きでしょう?
それを全うできないから「私なんか」と思うのだと思います。
そもそも責任感がどうでもよければそうは思わないものです。
好きに行動できますからね。

ですから、ここでこそ、その責任感を使ってください。

周囲のみなさんへの責任をもって自分を卑下の沼から上げてください。

あなたは(良かれ悪しかれ)人の為になることが好きですよね?
だからそれをここで使ってください。
誰にも知られませんけど、確実に周囲の人の為になります。
自分と家族を救えます。

36億〇〇歳である自分を意識して、
事あるごとに思い出し呟いてみてください。

ある日ふと長老のような気分になり、つい鷹揚に「上から話してしまった」などの失敗をしても、それは成功です。
失敗を素直に謝り、ひそかに「新しい癖を獲得したぞ!」と悦んでください。

その時には自分だけでは無く確実に周囲、特に家族を助けたことになります。

良かったですね^^
きっとそれこそが本来あなたが望んでいたことになると思います。

もう一度改めて、自分を見てあげてくださいね。


書くのをためらった話

3日前、オットが「最近なにかいい本ある?」と聞いてきました。
相当久しぶりの幽かな「読書欲」。
「これを逃しちゃなんねぇ」
そう思った私は頭の中に2冊の本が浮かびました。
で、オットに読みやすそうな方を一冊挙げてみました。

目の前の書棚にある「ソウル・オブ・マネー」という名著です。

そうしたら、オットはこう言いました。

「お金の事はどうでもいい」

「はぁ?」と思ったとたんに
私の頭の中では、そのハードカバーの痛そうな角を
オットの頭にぐりぐりとねじ込んでいる―の光景が浮かびました。

「聞かれたから答えて、私が素晴らしいと思っている本を教えた。
その本のタイトルに《マネー》と言う言葉が有るからと言って、
単純に「お金」と言う言葉に自分が持ってる知識だけで対応して
《お金の事はいい》だなんて、本当に可哀そうな奴だ」と

と言うことで一悶着ありまして^_^;

自分はまだこれくらいなのか?と、がっくり膝をつくほど、挫折感を味わいました。

オットがどう、とかじゃないんですよね。
私の世界で繰り広げられることは全て自分に責任があるわけです。
自分に対する情けなさ100%でした。

で、いろいろ考えたわけですが、

「お金」って実は相当精神性の高い案件であって、それをどうでもいいと言える人間はそれを知らないとしか言いようがないのです。

以前知人が「お金が有るから搾取がある、お金のない世界になればいい」と言ったことがあって、
それって昔ニュースで見た「息子がパチンコで借金を重ねるのはパチンコ屋があるからだ!パチンコ屋を規制してほしい」という老父と似て無くないか?
そもそも人類はまだ一度もお金を上手く使えたためしがないじゃないか、その原因は人類であって「お金そのものじゃないよね?」

そう思ったものです。

オットが「お金のことはどうでもいい」と言ったことにはいろんな意味合いが含まれてたとは思います。

でも、でも、「後3周くらい足らんぞ!おいっ!」って思ったのが事実。

で、ブログに書きたいなぁって思ったのですが、
オットの名誉もありますし、
なにより自分自身がこれくらいの世界しか持ってないのか?ってのが切なく恥ずかしいのでした。

惜しいなぁ、読んでほしかったよな、って思いながら「ソウル・オブ・マネー」と書かれた背表紙を見ていたんですが、

先ほどメールボックスを開いたらこんなメルマガが・・・・

「本田健×リン・ツイスト特別セミナー「本当の豊かさに目覚めて、お金から自由になる法」11/29東京開催決定」
・・そうきましたか、(-_-;ウーン

リン・ツイストはその「ソウル・オブ・マネー」の作者です。
今までこのような形で来日したことはありませんし、
本自体は2年前のもので、センセーショナルに取り扱われたわけでもありません。

そんなわけで、書くのをためらった話を書かざるを得なくなりました^_^;
動画のリンクを貼りましたが限定公開と後から気が付きました。
見られなかったらごめんなさい。



このお知らせは、私を含めてきっとどなたかが必要だったのでしょう。
だからこのタイミングだったとしか言いようがありません。

もしよかったら読んでみてください。
お金に関して一呼吸が置けるでしょう。


最初の階段

階段の最初の一段を、信頼してください。
その階段全てが、見えなくても良いのです。
まず、最初の段を、上がってください」 
マーチン・ルーサー・キング

これは本当にそうだと思う。
いままでずっとそれで歩んで来て、
だからこそ
自分以外の力も使わせてもらっているように思える。

ごくごく・・・・たまに
階段下りたほうが早いか?
そう検討することがある。

しかし、だ。
最終的に私が選ぶ道は

「自分にふりかかって来る一切のものは、最善のものと思え。
如何なる悪いことも、それは、最善のものであるぞ」
・・・日月神示

なわけで、
階段を登ろうと降りようと
常に最善であると腹をくくれる
自身への自信と、
魂の成熟を、

この生に決めてきたのだと思う。

あなたがすべてをやってしまったら、あなたは感謝する機会を失ってしまう。

私はどちらかと言えば人見知りだし
1人でいる方が好きで
人にものを頼むことが苦手で、
この年になっても道を尋ねる事すら苦手です^_^;

そのくせ、「頼られると嬉しい羊」という動物占いがビンゴで
頼まれても無いのに「してあげたい」性格です。

なので随分前にわざわざこう決めました。

「わからない時はともかく人に尋ねる」
「できないときはできないという」
「すべて自分でやろうとしない」
って(笑)

そうしたら、色んなことがわかりました。

「いい人」と言われる人がなぜ苦労するのか?とか
憎まれっ子がなぜ世にはばかるのか、とか(笑)

ほんとうに「いい人」ってのは
ちゃんと人にものを頼めて
ちゃんと相手に感謝できる人の事を言うんです。

感謝は小さくてキラキラ光るメダルです。
感謝された人はそのメダルでキラキラ光ります。

例えば

あなたがテーブルの向こうにある醤油を立ちあがり自分で取ったとしたら
あなたは誰にも「ありがとう」を言わなくていいわけです。
この時感謝メダルは生まれません。

けれどもあなたが「そのしょうゆを取って」と家族に頼めば
それを取ってくれた家族に「ありがとう助かったわ」と言う事が出来て
家族はあなたに感謝されたことを小さなメダルとして心に納めます。

あなたが何でも相手の為に、
自分がやってあげれば助かるだろうと思ってしてあげていることが
その人にとって、大きな成長の機会だったとしたらどうでしょうか。

相手はあなたがしてくれたことに本当に感謝して
ありがとうと、感謝メダルをくれますが。
そうなるとあなたは自分が光るだけです。

あなたは相手から成長の機会と
感謝のメダルの両方を奪ってしまっています。

人に迷惑を掛けないという事は
感謝するチャンスを(相手にとってはされるチャンスを)失う事です。

そもそも生きている限り、そんなことはできようもありません。
良まれてから今日まで誰の手も借りなかった人はいません。

「人に迷惑を掛けない」
これは美徳と考えられがちですが

この「迷惑」という言葉の範囲を誤って認識している場合。

相手から奪った感謝メダルであなたは
必要以上に重たくなり、
心の負担が増しているかもしれませんね。

小さなことから手を借りましょう。
感謝させてもらいましょう。

助かったわありがとう。
感謝メダルをいいバランスでやりとりできたら
世界は最高です♪

プロフィール

mayo

Author:mayo
アロエベラと潜在意識

お薦めブログ
attention
当ブログの写真・文章の一切の転載をご遠慮ください。
Powered